「あゝ予科練」(よかれん)のあらすじ、ネタバレ、キャスト、動画など。鶴田浩二主演。村山新治監督。「あゝ同期の桜」など東映3部作~(三上靖史)
作品紹介「あゝ予科練」
『あゝ同期の桜』『あゝ回天特別攻撃隊』に次ぐ東映戦記映画三部作の堂々の完結篇。
第二次世界大戦末期の昭和18年春から昭和20年の春までの二年間。戦況苛烈にして、日本が敗色を濃くしてゆく最中、海軍の要望に応じて、七ツボタンの予科練、海軍飛行予科練習生を志願した少年たちが、短期に訓練を受け、厳しく適性を試され、やがては南太平洋の戦雲の彼方に特攻出陣してゆくまでを赤裸々に描き出す。
出演は、鶴田浩二、西郷輝彦、谷隼人、梅宮辰夫、千葉真一、曾根晴美、池部良、丹波哲郎、藤純子、大原麗子、春川ますみ他東映オールスター総動員といったキャスティング。監督 村山新治
(1968年 110分)
セルDVD:4,725円(税込)東映ビデオ
スタッフ
監督:村山新治
脚本:須崎勝彌
音楽:木下忠司
キャスト
桂大尉 [ 鶴田浩二 ]
和久一郎 [ 西郷輝彦 ]
庄司克己 [ 谷隼人 ]
児玉少尉 [ 千葉真一 ]
あらすじ(ネタバレ注意)
第二次世界大戦の日本軍
時代は、第二次世界大戦のまっただなか。1943年(昭和18年)春、日本海軍は米軍物量作戦の前に苦戦をしていた。そんな折、土浦海軍航空隊では、七つボタンに身を固めた健気な新入隊員として、和久一郎、庄司、藤井、秋山、村田、並木らが、十一分隊一班に配属され、厳しい規律と訓練の日々が始まる。
下士官からのしごきは凄まじかった。特に、宮本上曹が行う精神注入捧の制裁には、全員が縮みあがってしまう程だった。
海軍航空隊の訓練
数日後、歴戦の勇士・桂大尉が十一分隊に着任。時を移さず、体育に学業にさらに厳しい訓練の日々が続く。そんな中、遂に最初の落伍者が出ることに。小心な並木が、自らの命を絶ったのだ。折しも戦局は日一日と緊迫の度合いを深め、幕僚の松本少佐からは訓練すべてを短縮せよとの命令が下される。
そんな状況下で、隊員たちの唯一の心のよすがである外出許可日が来る。ところが、和久の許に届いた学友の川崎素子の手紙が、宮本上曹に見つかり、総員外出禁止の命が下される。皆から責められる和久であったが、児玉分隊士の行なった高度な通信テストを見事クリアーし、再び皆には外出許可が出る。
外出許可。そして南方へ
藤井は姉の美恵子に、庄司が母菊江に再会している時、和久は独り兵舎に残り、出征日のことを一人寂しく回想していたが、桂の温情により鉄条網越しではあるが、弟妹たちと再会することができる。やがて不適合者として、秋山が脱落する中、隊員たちの心の支えである桂大尉は南方の戦線へと発つことになる。
零戦がフィリピンへ
年明けて昭和19年、ますます戦況は悪化。出陣を前に最後の外出休暇が許される。藤井は姉の美恵子と奈良薬師寺最後の時を過ごし、一方、和久家では素子も集い、和久と庄司を迎えての和気藹々の団欒。一夜明けると、零戦15機が編隊を組んで、桂の待つフィリピンへ向って飛び立っていく。途上、グラマン機との激戦があるものの、桂の援護銃撃に守られて、和久、庄司、藤井らは無事初陣を突破する。
神風特別攻撃隊
昭和19年10月、神風特別攻撃隊の命が下される。この事態に桂大尉は、人間は爆弾ではない!と上官と激論するものの、もはや時の流れはどうしようもなかった。そんな折り、基地上空を飛行中の藤井が、P24に急襲され、命を落とす。
東京大空襲で肉親を失う
藤井の遺骨と遺書を美恵子に届けたのは桂だった。桂が帰った後、藤井の最後の手紙を開く美恵子。そこには、桂隊長が理想の結婚相手だと書き綴られていた。一方、東京大空襲により和久と素子は、肉親すべてを失うことになるが、その悲しみに暮れる間もなく、二人の別れの時が近づいていた。
ついに特攻隊へ
和久は庄司、村田と共に九州鹿屋基地に転属される。遂に特別攻撃隊の命が下る。桂は自らその先頭に立つことで命を受諾する。翌朝の出撃を控え、最後の外出。和久は、泣きすがる素子に、自らが死ななければ戦争は終わらない!と静かに言い切るのだった。
突撃目標は、沖縄北方の米軍
突撃目標は沖縄北方の敵機動部隊。桂隊長以下残り15機が爆音を響かせて大空へと飛び去ってゆく。そして桂の手には、美恵子から送られた月光菩薩像が握られている。基地から遠ざかる機影を追うかのように、海辺を駈ける美恵子と素子の姿があった。
動画
「あゝ予科練」の動画です。
予告編
Youtubeの予告編です。
予告編→
関連記事(「あゝ同期の桜」など)
中島貞夫監督
2005年2月2日 毎日新聞、大阪朝刊
「極道の妻たち」など61作品
撮影前は、旅館にこもって本(脚本)作り。撮影に入ると、没頭する。終われば別に借りたマンションで次回作の仕事。たまに自宅にいる時は、役者や撮影所・映画関係者がやってくる。
映画監督、中島貞夫さん(70)は「私一人で映画はできません。いつも周りに仲間がいました。そいつらのおかげで生きてこれたんです」と語る。「猥雑(わいざつ)、ごった煮」(映画評論家、山根貞男氏)と評される中島さんの作品からは、踏み付けられてもしぶとく生き抜く庶民の目線が常に浮かび上がってくる。
戦後、みんな悪ガキだった
千葉県房総半島の九十九里浜で生まれた。11歳の8月15日、陸軍大将・荒木貞夫から名付けられた貞夫少年は裏山に行き、思い切り泣いた。兄が生後すぐに亡くなり、「長男」として育った。父は国民学校4年の時、戦死。その時は泣かなかった、いや泣くことが許されなかった。
「敗戦で180度、世の中が変わった。みんな悪ガキだったんですよ」
生きるため、「盗みは日常」だった。
「例えば、食うに困って。ジャン・バルジャンみたいな」
ビクトル・ユゴーの「レ・ミゼラブル」は、惨めな人々、という意味。惨めな思いを余儀なくされた人間の側に立った小説だ。主人公ジャン・バルジャンは、一切れのパンを盗んだ罪で投獄された。
過激なシーンの中に、ほろり
日本のあちこちにいた悪ガキ、荒くれ者たちが中島さんの作品の中で暴れまくる。過激なシーンが目立つが、ほろりとさせる場面が必ずある。
戦争から帰還した教師たちは、悪ガキたちをバットでたたいたが、その目は涙でぬれていた。
「教室で勉強した思い出はありませんが、人間教育だけはしっかりと受けました」
エノケン(榎本健一)、シミキン(清水金一)の喜劇
中学時代、野球と映画に夢中になった。
握り飯を持って汽車に乗って東京に行き、野球を見た。雨が降ると映画館に入った。エノケン(榎本健一)、シミキン(清水金一)の喜劇だ。
東京の日比谷高校に合格。入学直後、英語の試験があり呼び出された。「全くだめだ」といわれた。東京弁でまくし立てる教師や同級生。九十九里なまりにコンプレックスもあって、失語症になった。
三越劇場、文学座、俳優座、新国劇
1950年6月、朝鮮戦争が始まった。「また、戦争か」。米軍機は、東京空襲で余った爆弾を、古里周辺に落として太平洋に去る。その恐怖心がよみがえった。
芝居好きの母が毎月上京、中島さんを三越劇場に連れて行った。文学座や俳優座、新国劇の観劇に引っ張り回した。
12月もすると同じ「英語ダメグループ」の悪友たちと友達になり、失語症を克服した。
打ち込んだ高校野球の夏の大会が終わり、受験勉強を始めた。しかし、体がだるい。秋、診察を受けると、結核だった。
数年前なら結核は「死の病」。しかし、既に抗生物質も十分にあり、不治の病ではなかった。1年休学し、実家の離れで読書に励んだ。
「時代ですね。マルクス・エンゲルス全集18巻、読みました」
倉本聰さんとの出会い
東京大学文学部に入学。1年の文化祭で、倉本聰さん(脚本家)と出会う。2人が中心になってギリシャ悲劇研究会をスタートさせた。実際に上演しようと、竹内敏雄教授に相談するとひとこと、「無謀な」と言われた。しかし、1958年5月、オイディプス王をテーマに日比谷野外音楽堂で上演。それまで野外でのギリシャ悲劇上演の例はなかったので一躍有名に。すぐに雑誌社から原稿依頼があった。
観客動員数がピークの映画界へ
卒業が近づき進路を決める必要に迫られた。選択肢は3つ。1つは大学に残る。2つ目は劇団に入る。最後が当時、観客動員数がピークの映画界に入る。誰にも相談せず、東映を受けた。理由はシンプルだった。
友人が東映社長の息子の家庭教師
友人が当時の東映社長の息子の家庭教師だったことと、試験が一番早かったこと。当時の週刊誌の人気職業のベストテンに「助監督」がランクインしていたことも影響したかもしれない。
東映入社
時代劇中心の京都撮影所に配属
入社後、時代劇中心の京都撮影所に配属。想定外のことだった。「『ギリシャ悲劇は時代劇だろ。京都に行ってくれ』って言われました。当時の人事課長の名(迷)せりふでした」
助監督
1本の映画製作には複数の助監督が付く。年功序列の世界だ。それまで、東映京都撮影所に大卒の助監督が配属された例は少なく、加えて同撮影所助監督部は、各社からの寄せ集め集団で「助監督ずれした手ごわい面々がいた」。
この中で、中島さんは「ちょっと意地悪されたなあ、と感じることはありましたが、問題は助監督より他の部門のスタッフでした」という。
小道具
例えば小道具。監督から「おい、ちょっと明かりを持って来い」と言われたとする。何の知識もなく小道具係に行くと、「これ持っていけ」と言われる。ここが大事なポイントだ。行灯(あんどん)なのか、ろうそくなのか、そのシーンに合った明かりを指さし、「ああ、これ」と言わないと一人前の助監督になれない。
「結局は、知識。担当者は何10年も同じ仕事をやっている。こっちに知識があるかどうか、で認めさせられるかどうかが決まります。努力するしかない」
入社5年目で監督デビュー
助監督として、撮影現場を走り回った。入社5年目で監督デビュー。土とほこりと汗のにおいの中で、「本番!」と声をかける瞬間の緊張感と高揚感はたまらなかった。
現代劇を撮りたい
京都撮影所に配属された時から、現代劇を撮りたいと思い続けていた。1、2作が好評だったこともあり、3作目で挑戦した。山野で漂泊の生活を送っていたとされる山窩(さんか)をテーマにした作品だった。しかし、社長からストップがかかった。
日本映画監督協会新人賞
893愚連隊
「辞めてやる」。仕方なく労働者の町、大阪・西成のあいりん地区に泊まり込んで、別の脚本を書いた。これもボツになった。試行錯誤のあと、日本映画監督協会新人賞をとった「893(はちきゅうさん)愚連隊」(1966年)が生まれた。
オールロケの白黒
松方弘樹、近藤正臣、荒木一郎という個性的な俳優を使い、オールロケの白黒、ドキュメントタッチ。チンピラを演じる松方に「粋がったらあかん。ネチョネチョ生きてるこっちゃ」というせりふを言わせた。当時、中島さんは、会社を辞めようと思うがそれも出来ず八方ふさがり。「私の心境をぶつけたら、若い人に受けた」
翌1967年の「あゝ同期の桜」でも会社とぶつかる。中島さんのスタンスは「戦争における死は、すべて惨死であり、犬死にである」。
ラストシーンの編集で対立
問題はラストのシーンだった。特攻機が米艦に突っ込んで行くところで画面がとまり、「この瞬間、彼らはまだ生きていた」というテロップが入る。画面が動き、特攻機は米艦に当たらずに海に突っ込んだ瞬間に「この時から僅(わず)か4カ月、戦争は終わった」で終わる。すったもんだの末、最後の画面が動くところから後がなくなった。
「会社から介入されない映画作りの方法はないか、と考えましたね」
この作品を機に、社員から契約監督になった。
大阪芸大大学院教授
1997年3月、妻貞子さんを脳腫瘍(しゅよう)で亡くした。「相当迷惑をかけました。苦労したと思いますが、まあ、半分は楽しんだんじゃないかな」。最期の8カ月間、病院食がのどを通らない貞子さんのため、食事を作った。
倉本さんが北海道・富良野から駆け付け、「お前は何もせんでええから」と、仲間が葬式を取り仕切ってくれた。
北野武(ビートたけし)の東京芸大大学院教授就任が話題になったが、中島さんは、1987年の18年前から大阪芸大大学院教授として学生に教えている。
かつて毎週2本立て上映
かつて東映は、毎週2本立て上映で、年間100本の映画を作っていた。東京と京都の2つの極があった。それが今では完全に崩れている。
「京都の映画作りでは、蓄積された職人技が重要視される。確かな技術と知識が必要。最初はモノマネ。それを重ねて、基本的なものを蓄積していくこと」と中島さん。
学生たちへのメッセージは--「ものを作り出すということはシンドイ。自分が何を作りたいのかを突き詰めることです。本当にこれを作りたい、というものを、自由に作ってほしい」。
略歴
なかじま・さだお
1934年、千葉県東金市生まれ。1959年東映に入社し、1964年、「くノ一忍法」で監督デビュー。「あゝ同期の桜」、「まむしの兄弟」シリーズ、「日本の首領」3部作、「人生劇場」、「序の舞」、「極道の妻たち」シリーズなど計61作品を監督。他に脚本、テレビ、ビデオ作品など多数。